三津石智巳

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【感想】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか


大変勉強になった。企業戦略・企業内教育という文脈に置き換えて読む。

大学教育こそが唯一4年間を一つの科目のようにして構成できる特徴を有している。大学教育こそが〈カリキュラム〉教育が可能な学校(大学)の本質を有しているのだから。学習指導要領のない自由な大学においてこそ、教員がその専門性において自ら自由に書き込んでいく〝学習指導要領〟がシラバス=コマシラバスの存在意味。大学教育の自由とは、自由に計画を詳細化できる自由であって、毎回の授業計画は毎回書き下ろしの教科書を書ける(はずの)大学教員の専門性を反映している。

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大学は4年間だが、企業内教育というのはより長いスパンでカリキュラムを組めるとも言えるだろうか。

そんな実習授業の「細目レベル」こそ、きちんと詳細化して書き込むべきなのである。実習は寝ている学生がいない分、講義授業よりも授業の凸凹が見えづらい。だからこそ、「細目レベル」の詳細化と履修判定(期末テスト)の解像度との整合性を取る必要がある。「講義のシラバスはまだ書きやすいが、実習のシラバスは書きづらい」と嘆く教員がいるが、そんな教員はほとんどの場合、解像度の低い実習試験、実習補習、その追再試で授業を終えている。

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仕事も寝ている社員がいない分、凸凹が見えづらい。

しかし、これらの「目標」記述は、結局は、履修判定の指標として具体化しないと意味がない。目標が具体化するのは、期末試験(履修判定試験)においてのことだからだ。従来、これらの「目標」は概念型シラバスと同じように、概念的な目標記述にとどまっていた。しかし目標を概念的に記述しても、それらが15回授業(2単位授業)の中でどんな関連をもって展開するのかが見えない限り、ほとんど意味のない記述にとどまる。目標にもインカネーション(incarnation)が必要なのである。

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インカネーションとは具現化という意味。私としてはExecutableという語のほうがしっくりくる。

ひどいものになると、質問点、出席点などという「観点」をいまだに挙げる大学も存在する。これも確かに〈アセスメントポリシー〉の一部をなすかもしれないが、本来の〈アセスメントポリシー〉は、「期末テスト」自体の評価方針(評価基準)、「小テスト」自体の評価方針(評価基準)、「レポート」自体の評価方針(評価基準)などを掲げることである。

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勤怠に同じ。

しかし授業計画(シラバス)を書き上げるときには、その計画の〝成果〟がどんなふうに確かめられるのかを同時に示すべきなのだ。むしろ〝成果(あるいは目標)〟から逆算して授業計画は書かれなくてはならない。目標なしに計画を立てても意味がないからだ。それを棚に上げて、評価割合を観点別に挙げても、いったいその割合の提示が何を意味するのかは全くわからない。おそらく〈目標(試験指標)〉と〈計画〉とが別々に立てられている分、教員は観点別の割合くらいしか思いつくことがないのだ。この程度では、おそらく学生は「期末テスト」の割合が低い授業の履修に傾きがちになるに違いない。試験日一回で決まる〝リスク〟が低くなるからだ。その程度の「ポリシー」にすぎない。

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企業でも週次計画を立てたい。

話を聞いていると、ほとんどの発言は、授業法に関わるものばかりだった。「板書が下手だ」「教壇にばかり張り付いてないで教室の後ろにも回れ」「教材の使い方がよくない」「声が小さい」「授業にメリハリがない」「早口でよく聞き取れない」などなど。これらの評価は、評価者が「私はそうではない」と言っているだけのことだ。声の大きな人は小さい声の人に「小さい」と非難する、板書のうまい人は「板書が下手だ」と指摘する、そんなことの応酬になる。そのように大概の授業評価会は、「私はそうではない」という議論に終始する。そしてその反対現象を少し整理して列挙すると、「インストラクショナルデザイン」体系ができあがることになる。全く不毛な。

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目標(ベンチマーク)がなければ、評価がスキルに偏ってしまうという話かと。

したがって、授業評価を有効に効かせるには、毎回の授業目標ができうる限り具体的に開示される必要がある。シラバスではなくて、コマシラバスが必要なのだ、と。「コマシラバス」という言葉は、そのときに浮かんだ言葉だった。

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日報文化を復活させたい。

これは私にとって深刻な事態だった。干渉主義的な、そして管理主義的な授業評価を招来する原因は、むしろ自らの授業目標を具体化したり、詳細化したりしていない教員自身にあったのだから。またそういった体制を取ることなく、〝神聖な〟教室に土足で入るかのような(無益な)授業評価会を重ねる管理職や同僚教員にも問題があった。授業評価の前に取り組むべきなのは、コマシラバスだったのだ。コマシラバスのない授業評価はすべて干渉主義でしかない。

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過干渉されないためには自身が定めた大学全体の教育目標のサブシステムを担う目標(コマシラバス)が必要ということ。企業でも自由に働きたければコマシラバスを作ればよいということになるのでは。

期間内で、自分で自由にカリキュラムを形成できるカリキュラム、まさに「ハイパーカリキュラム」が誕生した瞬間だった。受講生はそれ以後、爆発的に増えていった。資格を一切目指さない「ユーザーコンピューティング」カリキュラムで成功した社会人教育としては国内初のものだったと思う。

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これも面白い話で、よくサラリーマンは自分がフリーランスであるかのように考えて企業の中で働きましょうみたいな意識の高い話があるが、更に推し進めて、一日一日の仕事をマイクロタスク化もしくはマイクロサービス化して自由に切り出しができるようになるというような話。

授業に失敗しても試験認定するのは、その失敗した教員であるため、失敗した分、試験基準(履修判定基準)をゆるめれば、その失敗は見えなくなる。学生も最終(あるいは最低)目標は〝卒業(学歴取得)〟だから、試験基準が緩むことに、それほどの不満は生じない(※)。

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マネージャーが失敗してもマネージャーが評価するというような話。

「学校教育」における学生は〈顧客〉ではない分、教員は自己管理に厳しい体制を取る必要がある。

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社員も企業にとって顧客ではない。

そして、もし、この〝後がない〟緊密感 ― 確実に踏みしめることのできる階段(緩やかではあるが、長時間かければかなりの高さまで登れる階段) ― を、〈学校教育〉に持ち込めばどんなことが起こるのだろう、というのが当時の私の感慨だった。

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これもいい。世の中の多くのことは、階段になっていないと思う。

そのためには、まずは、本質的に受動的な学生(=学校教育における受講者)を、社会人による授業評価のように「アクティブ」な評価者に変える必要がある。「アクティブ」な評価者を形成するには、授業情報の組織だった詳細化が必要になる。その情報開示の核が「コマシラバス」だった。社会人講座の成否が受講生アンケートに帰趨し心理主義的評価が前面化するのは商業主義的にも仕方のないことだが、学校教育ではコマシラバスを強化すると学生による授業評価もより知性化し「満足度」評価で終わらない教学体制ができあがる。

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企業人は本質的に受動的である必要は別にないのだが、「支持待ち」のような概念があるということはそういう企業人もいるということだろう。

「よい」授業とは何かとよく聞かれるが、それは(とりあえずは)シラバス読解とその実際の授業を経て学生の作る模擬試験(あるいは実習試験官判定)が、教員が思い描いていた本試験の水準と同じものになる授業のことだ。

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よい経営とは経営戦略理解を経て現場の作る実行計画が経営陣が思い描いていた水準と同じものになることとは言えないだろうか。